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2006年12月12日

●モラルと教育

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 今日、帰りの電車の中で、読書に夢中になっていると、前で坐っている子どもが騒がしい。ふと目を上げると、3人の男の子が座席のうえでじゃれていた。隣に父親らしい男性がおり、携帯をずっと触っていた。
 しばらくすると、車掌さんがきて、その父親に何か声をかけた。窓ガラスには、「携帯電話の電源をお切りください」とある。むかいに座る子連れも僕も、自分の坐っている場所が「優先座席」であると気がついていなかった。
 車掌から注意を受けた父親は、軽く会釈をし、携帯電話を手に包み込んだ。僕は、読んでいた本の続きが気になっていたので、何の意識もなく、本に入っていった。
 しばらくすると、僕の二つ隣に座っていた男性が、ブツブツと、なにやらいい始めた。前をみると、父親が再び、携帯を使っており、子どもたちがのぞきこんでいる
 これはいったいなんだろう。
 この父親は、自分に対する「監視」あるいは「管理」がなくなれば、何をしてもいいと思っているのだろうか。もちろん、人間であるのだから、理性が働かなくなくなることもある。僕などは、しょっちゅうだ。いい年をして、監視されなくなると、注意を受けたことを繰り返すということに、情けなさを感じる。その上で、その隣にいる3人の子どもは、「迷惑行為やマナーなどは、形式的なもので、さほど重要でない」と、父親の姿をみて学ぶだろう
 僕は、基本的な教育とは、大人が自らの姿や行動を見せることであると思っている。ちょっとした信号で、車が通っていないときは信号を無視して渡ることもあるが、目の前や近くに子どもがいたときは、信号が変わるのを待つ。それが、せめてもの僕なりの社会に対するささやかな貢献と考えている。
 見本となる大人が、マナーを守らずに、社会的常識のある子どもが育つとは思えない。

2006年11月26日

●教育基本法の改悪をとめよう!11・26関西集会(扇町公園)へ

 「アッテンボローの雑記帳」さんの記事からの引用。
 僕もぜひ参加したい。。。

 教育基本法の改悪をとめよう!11・26関西集会(扇町公園)へ
 関西において教育基本法改悪反対の一日共闘が行われるようです。以下案内文を紹介します。

続きを読む "教育基本法の改悪をとめよう!11・26関西集会(扇町公園)へ"
2006年11月17日

●けっしてあきらめず、悪政を批判する

伊吹文明
 今日、ついに衆議院本会議で、教育基本法が、民主、共産、社民などの議員欠席の中、強行採決された。ひどい話である。民主主義のかけらも感じることができない。
 日本国憲法に書かれてあるように、日本国民には思想・信条の自由が掲げられている。さまざまな思想・信条があるからこそ、さまざまな党派が存在することになる。当然なことだ。
 しかし、多数をもって、法律をつくったり改正したりできるのであれば、議会の必要はないし、さまざまな党派が存在していても意味がない。北朝鮮には、朝鮮労働党以外にもいくつかの党派があるらしいが、政治的な力は何ももたない。日本においてもまったく同じである。自民党と公明党以外は、多数の論理の下では、政治的な力は「無力」と化している。これが、民主主義というのか。民主主義とは、多数が支配する社会ではなく、小数者に耳を傾ける社会である。
 また、衆院で強行採決される前に、中央公聴会が開かれている。呼ばれた5人のうち、3名は改正反対の意見を述べているが、だから、自民党や公明党はそこから何か学んだというのだろうか。結局は、強行採決ありきのうえにおこなわれた公聴会であり、これまた民主主義を装うためだけにおこなっているものといわざるをえない。
 公聴会で早稲田大教授の西原博史氏は、
 「子どもに(愛国心という)特定の価値観を強制することになる。多様な価値観を否定することは民主主義の否定です」
 と発言したようであるが、まったくその通りだろう。
 そもそも、愛国心などというものは、自発的なもので押し付けたり、押し付けられたりするような性格のものではない
 だいたい、教育基本法の何が問題であるというのか
 子どもたちのいじめの問題にせよ、自殺の連鎖などは、教育基本法が原因なのか。あいつぐ教師や校長の自殺は教育基本法を変えればなくなるのか。
 むしろ、教育基本法を変えて、特定の価値観を押し付ける方が、いじめや自殺の原因となるだろう。1億数千万人の様々な人間が暮らすこの列島において、ごく一部の特権的な政治家がつくった価値観をそのまま受け入れることのできる人は限られる。では、その価値観を受け入れることができない人間はどうなるのか。社会的に排除されることになる。つまり、いじめられることになることは、けっして極端な例ではないだろう。
 自民党と公明党以外の国会議員は、全員辞職して、強制的に国会を解散させるくらいのことをやらないと、いつまでたっても、多数派によるむちゃくちゃな政治は続くだろう。全く許すことはできない。
 この反動は、絶対に許してはならないし、国会が終わるまで、いや終わったとしても、教育基本法の改悪に対しては、あきらめずにたたかわないといけない

※【資料】Internet Zone::WordPressでBlog生活さんの「教育基本法衆院強行採決にたいする新聞社説を見る」に、地方紙の見解がまとめられています。

2006年11月16日

●安倍政治の姑息さ

 教育における憲法といわれる教育基本法が、15日夕方に衆議院特別委員会で自民党により強行採決された。
 教育が「100年の大計」といわれる言葉に比しても、あまりにも軽薄で酷いやりかたである。国民的な論議があまりにもなさすぎる。僕の職場でも、教育基本法に関する話題などまったくなかった。
 さて、小泉前首相は、パフォーマンスを全面に押し出し、ワンフレーズの軽い言葉で、庶民の生活を追い詰める政治を行ってきた。たいして、安倍首相は、イメージの良さだけで、目立たず、こっそりと庶民の生活を苦しめる悪法を次々と成立させようとしている。きわめて危険な状況であるといわざるえない。
 11月15日の『朝日新聞』で、中川秀直・自民党幹事長が
 「安倍総理は、(自民党総裁任期の)2期目に必ず憲法改正の手続きに入るだろう。政界再編してでも憲法改正を実現する決意だ」
 と報道されているが、穏健なイメージを残しながら、その実、裏で教育基本法の改正、憲法改正などをたくらみ、実行していっている。マスコミの報道を注意深く観察すると同時に、保守、中道、革新など、思想信条にかかわりなく、安倍政治に危惧をいだく人々は、力を合わせて、安倍内閣の早期崩壊の原動力ならないといけないと強く思う。
 良心的なブロガーは、トラックバックの網の目を張り巡らそう。小異を残して大同につき、安倍首相の退陣のうねりを!

2006年11月01日

●アメリカの教育バウチャー制度

 財団法人・自治体国際化協会のサイトで、アメリカのバウチャー制度について、簡潔で要点をえた解説があった。
 まず、アメリカでは「教育改革」の一環としてバウチャーが論議されたらしい。安倍氏が、いきなりバウチャー制度など言いだしたのは、ブッシュの物まねなんだろう。それはともかく、この「教育改革」の中身は以下のようになる。
 (1)連邦政府の補助金の使途について、州や各地区の裁量範囲を拡大する。
 (2)州政府に、3年生から8年生までの「読み書き」および「数学」の統一テストの実施を義務づける。
 (3)各学校にはテストの成績の目標が示され、基準に達しない学校には連邦政府から補助金が出されるが、それでも改善されない場合は、その学校の生徒は公費で別の公立学校に転校させることを認める。また、十分な改善が4年続けて見られない学校の教職員とカリキュラムを変更することを認める。
などである。(上記サイトより引用)
 さて、この(2)および(3)の問題は、深刻である。統一テストを実施し、子供の成績が基準に達しなければ、別の学校へ転校させ、またその教職員とカリキュラムを変更するという点である。
 マスコミでもときどき話題となる某巨大掲示板では、特定の都道府県や特定の地域を名指しで笑いものにしている場面に出くわすのだが、統一テストを実施し基準に満たない学校やあるいはそういう学校を含む地域が、蔑んだ目でみられネット上で差別的に取り上げられる危険性がたぶんにある。これは教育ではない。国家ぐるみの集団的ないじめだろう。
 そもそも、勉強はできたにこしたことはないと思うが、国が決めた基準に達しなければならない理由もない。僕の母親は戦中生まれで、字の読み書きは不自由であるが、立派に商売を営み、けっこうな生活をしている。要は、生きていく力をつけていくというのが教育なのではないのか。勉強だけできればいいのであれば、公立の塾でもつくればよい。
 さて、さらに安倍氏は著書『美しい国へ』の中で、アメリカのバウチャー制度に触れているが、広大な面積と3億の人口を有するアメリカでも、教育バウチャー制度を実施しているのは、わずか3地域にしかすぎない。しかも、先に紹介したサイトに詳細があるが、学校間の競争を促し教育の質を高めるために導入しているのではなく、教育費のねん出することができない家庭に、補助金としてバウチャーを発行しているのである。
 また、この記事では、バウチャー制度の問題として、1)政教分離の問題、2)コスト高の問題、3)成果の問題を挙げている。
 1)に関しては、宗教団体が学校を運営し、その学校に人気が集まり、バウチャーが大量に使われれば、特定の宗教団体への利益供与になるのではないかといく懸念である。まったくその通りだろう。
 2)の件では、僕は教育に対してはいくらコストをかけてもいいと思っている。むしろ、公立の小中高大学まで、無料もしくは無料に近いくらいの授業にすべきだと思っている。ただ、ここでいうコストとは、バウチャー制度をわざわざ導入したのはいいが、無駄なコストばかりかかるという可能性である。
 つまり、3)でいうように、成果に関しては、イギリスではすでに保守党サッチャー政権下でバウチャー制度が導入されているにもかかわらず、現労働党政権下では、導入した当の保守党からバウチャー制度の廃止を訴える声がでているというのだから、深刻である。
 では、こうした多くの問題を含む教育バウチャー制度を、今あえて安倍政権は出してきたのか。一つのカギは、過去の記事「教育を受ける権利は、誰もが有する」に書いたようなことがあるのではないかと考える。つまり、教育の民営化、公立の学校の撤廃を狙っているのではないかということだ。
 教育基本法改正の論議がふたたび国会でなされているが、安倍内閣はバウチャー制度もごったにして、どさくさまぎれに制度化する可能性がある。要監視事項のひとつだろう。

 ※関連エントリー
 「今週の『サンデー毎日』 教育バウチャー制度編」

2006年10月31日

●今週の『サンデー毎日』 教育バウチャー制度編

 今週の『サンデー毎日』(11月12日号)は、教育改革特集だったので買った。
 ヤンキー先生こと義良氏が、「日本教育再生機構」(代表・八木秀次)などから左翼よばわりされていることや、岩波書店発行の月刊誌『世界』が、共産党機関紙『赤旗』と同列に批判されていることなど、恐ろしく偏向的な主張が語られていることなど、驚くべきである。『世界』の論調は、良くも悪くも日本の良識であり、右翼だとか左翼だとか、あるいは偏っているとか、そういう次元で語れるものではないのだが、それが一政党の機関紙と同列に並べられるとは、トンデモ見解としか言いようがない。
 さて、たいへんわかりやすかったのは、安倍氏の目玉のひとつである教育バウチャー制度が、まとめられていたことである。
 まず、安倍氏がお手本にしようとしているイギリスの教育バウチャー制度である。
 各家庭が、バウチャー=教育利用券を持っていき、自分の子供を学校に入学させるわけのであるが、各家庭が学校を選ぶためには当然その基準となる情報の開示が必要となる。その一つが、統一学力テストであるという。年に4回の全国統一の学力テストを各学校で実施し、そのランクを出す。保護者は、このテスト結果を参考にして行かせたい学校を第6希望までだす。
 もちろん、判断材料は、学力テストの結果だけではなく、保護者は学校見学やパンフ収集など、少しでも多くの情報を得なければならない。このとき、当然であるが、家庭が裕福でそうした時間のある保護者は、少しでも「良い」学校を探すことができるわけであるが、共働きをしていたり、一日に仕事を複数かけ持っている家庭、あるいは父子家庭、母子家庭などは十分な情報を得ることができない。ここでも格差が広がることになる。
 また、安倍氏は学校に競争原理を持ち込むことによって、保護者や子供にとっていい教育を提供できることになると公言している教育バウチャー制度であるが、学校間格差を広げることになるだろうことは容易に想像できる。イギリスでは、学力テストによる目標管理や学校名の公表、査察制度、成果主義的賃金体系などが、当然のことながら、各学校の格差を拡大させているようである。その結果、序列が下位の学校では、校長のなり手すらみつからず、今年は新学期が始まる1週間前ですら、イングランドだけで1300校の校長が決まっていなかったという。
 こうしたことは、まったく至極当然のことだろう。きわめて簡単に予想のできる結果である。親としては、少しでもいい環境で、いい教師がいて、学力テストの序列が一つでもいいところに、わが子を入学させたいと願うだろう。親心としては当然である。その結果、一部の学校に人気が集中することになる。また、教師にしても、人気校で働けば、給与はいいが、不人気校では同じ仕事をしても、給与が下がるなれば、いい教育の提供などできようがない。そして、そういう学校にしか通えない子どもたちの夢や希望は閉ざされてしまうだろう。
 記事の最後で、民主主義の強固なイギリスでは、各学校の自由と自主性がかなり確保されているのに対して、日本では「命令にどれだけ忠実かを査察するような監視・統制的なものになる可能性が高い」(佐貫浩・法政大教授)と、締めくくっている。
 まったくそのとおりだろう。

2006年10月19日

●いじめは人間の本質か

 仕事がら、なかなかテレビもみれないので、情報はもっぱらメールマガジンで仕入れるのだが、そのうちのひとつ『週刊メールジャーナル』(2006/10/18 No.356)で気になる記事があった。「いじめによる自殺報道は学校社会の本質を見ていない いじめのない学校なんてあるはずがない」という題で、このメルマガを編集発行している川崎氏の記事だ。
 この記事を、僕なりに要約すると、学校でのいじめというのは学校のみならず、人間の本能である。したがって、学校ではいじめはとうぜんのこととして、教師の研修などはじめ対処しなければならないというものである。
 僕は、観念論の立場をとらず唯物論の立場をとっているので、現実社会からすべての問題を考える。そうすると、学校でのいじめが現実に存在する以上、それをふまえて、教育現場は対応すべきだと思うし、実際にもそうしてきたのではないかと思う。
 が! いじめが「人間の本能であるから、当然いじめはある」というには、強い違和感がある。
 川崎氏は、野生動物を例にとり、
 「つまりは、自己の生存権のために、魚類や野獣が、自分の縄張りを守るために他者を追い出そうとたたかう本能と、ほとんど同じ行為なのである。」
 というが、こうした自然科学における「法則性」を、安易に社会科学に当てはめるのは、ナチスの方法に類似し、社会ダーウィニズムにも通じるきわめて危険な方法である。
 具体的にいうと、「魚類や野獣が、自分の縄張りを守るために他者を追い出」すというのは、誤りである。正確にいうと、都合のいいところだけを抜き出して、事実をねじ曲げている。最近はやりの言葉でたとえると、世界で最強最悪の物質「ジハイドロジェン・モノオキサイド」(和名:一酸化二水素)問題と同じく、嘘をつかなくても、ある事実を意図的に隠すことによって、見方が変えてしまうという効果をもたらす。
 さて、イワシが泳いでいる水族館にいけば、すぐにわかるが、小型の魚は自らの身を守るために群れをなす。けっして、仲間内で「縄張りを争う」などということはしない。あるいは、クジラの仲間でも複数のメスが群れをなし、子育てをする種がある。この場合などは、明らかに助け合って種を保存するという知的行動がみられる。
 哺乳類は、脳の発達から知的な行動をするケースが多数みられるが、太古の時代からヒトとともに生きてきたイヌもそうだろう。群れをなし、リーダーを先頭に助け合いかばいあいながら生きる。もちろん、次期リーダーを決める争いやメスをめぐる争いはおこるが、これはいじめとは次元が違う。
 では、この記事でいう「縄張りを争う」ことはないかというと、主に群れをなさない動物には確かにみられる。たとえば、ネコ科の動物など典型だろう。あるいは、魚類でいうとアユなども有名だ。
 しかし、縄張り争いをする動物がいるといっても、相手を殺すまでには至ることはない。ましてや、生物界において最も知能の発達した人間が、なぜ縄張り争いをして、相手を死に至らしめる必要があるのか。
 そもそも、川崎氏は、「本能」などという言葉を簡単にヒトに使っているが、ヒトほど本能から遠ざかった、あるいは本能という呪縛から解き放たれた生物はいないのではないかと考える。それは、高度に発達した知能だけがもたらすことである。
 つまり、いじめの発生と撲滅とは、この高度に発達した知能をもってすれば、かならず解決できるはずである。逆に、もし、川崎氏のいうように「縄張りを守ろうとする」ような本能がヒトに存在するなら、ヒトはもっと動物的であっただろう。つまり、ヒトの主な行動は他の動物と同様に、食欲という自己の保存と、性欲という種の保存のみに。もっとも、そうであったなら、いじめの問題はおろか、環境問題もエネルギー問題も、さらには同種が殺しあうという戦争の問題も存在しうるはずもなく、その方がよかったのかもしれないが。

2006年10月18日

●稲田朋美・衆議院議員「祖国のために命を捨てるエリートを育てる」


 産経Web「教育を考える」に、稲田朋美という衆議院議員の教育論が掲載されている。
 箇条書きに要約すると、

 ・真のエリートが1万人いれば日本は救われる
 ・真のエリートの条件として、いざというときに祖国のために命をささげる覚悟があること
 ・そういう真のエリートを育てる教育をしなければならない
 ・若者に農業に就かせる「徴農」を実施すれば、ニート問題は解決
 ・教育基本法に愛国心を盛り込むべきだ。愛国心が駄目なら祖国愛と書くべき
 ・安倍さんにとって教育改革は最も取り組みたい課題なので、頑張りたい。

 いったいこの人は、なんなんだろう。彼女は、「祖国のために命を捨てられる」エリート10000人を育てるのが教育だという。これを差別・選別教育といわずして、何を差別選別というか。この「エリート」という層以外は、使い捨ての労働者。しかも、労働者にもならない「ニート」は、農業を強制的にさせるという。これも、どういうことなのか。農業をバカにしているのか。
 そういえば、農業体験を「ニート」と言われる人たちに体験してもらおうと、政府か何かが何千万もかけて企画したが、全く人が集まらなかったと、たしか最近の『週刊ポスト』にでてたっけ。あまりにもふざけている。
 こういう危険思想の持ち主が、この方針で安倍内閣を応援するというのだから、安倍内閣には早期退陣してもらわないと、庶民の子は、まともな教育すら受けられなくなる。

 ※画像は、「とりあえずガスパーチョ」さんの「2006年安倍自滅党ポスター その3:教育」からいただきました。

2006年10月06日

●株式会社による学校経営について考える

 ついに、全面的に株式会社による学校経営が始まりそうである。このことによって、何が起こるであろうか。
 株式会社というのは、株主が出資・投資し成り立つ会社である。とりわけ上場すれば、株式市場で自社株の売買を行えるために、資本の調達ができる。しかし、逆にいうと、それまで、創業者のものであった会社=My Companyは、多くの株主のための会社=Our Companyとなる。
 創業者と役員が動かせる会社は、その経営者の理念がそっくりと反映されやすい。ところが、Our Companyとなった途端に、多くの株主の利害を追及しなければならなくなる。出資してくれている株主に損をさせない、さらに配当金として利潤を分配しなければならず、理念よりも金もうけ優先になりがちである。
 こうした株式会社が、教育業を営むということは、理念よりも儲けが勝ってしまう可能性がある。
先の記事『教育を受ける権利は、誰もが有する』で、政府の教育を民営化するという方針について書いたが、当時の大蔵省が危惧するように、儲けを追及するあまり迎合的になったり、サービス過剰で、低俗な教育機関になる可能性は、十分にあるだろう。すでに、最近開校した私立中学校では、報道でみる限り、かなりサービス過剰気味な気がした。これが、株式会社化すれば、授業料だけでなく、市場からの資金も合わせ、その潤沢な資本を元にホテル並みのサービスを兼ね備えた、しかもエンターテイメント性に富んだ学校=公教育が誕生するかもしれない。
 ただ、裕福な層がこうした学校に通わせるのは勝手である。むしろ、どうでもよい。問題は、公教育がこのような過程を経過しながら、民間に移行していくことだけは、絶対に阻止しなければならないとおもう。公立学校自体の維持存続と公立学校での質の高い授業の維持発展は、なされないといけない。現場の先生方は、大変だろうが、ぜひ奮闘していただきたい。

◆株式会社の学校経営、全国解禁を検討・政府
政府は株式会社による学校設立で、全国解禁の検討を始める。土地・建物の所有を義務付ける学校設置規制の撤廃も論議。
2006-10-05 『NIKKEI-goo 日経ニュースメール』
2006年10月04日

●教育を受ける権利は、誰もが有する

 科学教育研究協議会(科教協)編集の『理科教室』9月号の「科教協だより」に、東大阪市の小学校教諭の三上周治氏が、「教育基本法の改正は教育民営化の準備である」と言っておられる。
 そこで、氏は、1986年に出された大蔵省委託研究の「ソフト化社会の家庭・分化・教育 -今後21世紀に向かって日本の教育システムはどのような方向に進むべきー」という報告書が紹介されている。
 そこでは、次のような信じがたいことがまとめられている。
 ・21世紀は、国家は教育を提供しない。
 ・多様なニーズに応じて、民間が供給する自由で競争的な教育
 ・学校は、教育企業的な性格を持つ

 としている。
 さらに、予想される問題点として
 ・競争の激化に伴い、需要迎合型の低俗な教育の出現
 ・教育に関心をもつ階層とそうでない階層との分化が起こる

 と報告しているという。
 さて、この報告書が出されたのは20年も前であるが、現実をみたときいったいどうだろうか。僕には、この報告書通りに教育行政が進んでいるとしか思えない。明らかに、国はみずからの責任において、教育を果たしていく義務を意識的に放棄している気がしてならない。
 たとえば、現在、小学校や中学校で使われている教科書をみれば、いかに内容が薄いかよくわかる。どの教科もそうである。
 小学校における英語教育の導入などが論議されているが、中学校の英語の教科書の貧弱さをみれば、むしろ中学校における英語教育の充実が重要である。さらに言えば、聞いたり話したりすることがきわめて苦手な子どもが増えてきていることを考えれば、小学校では何がなくても日本の読み書きの訓練が最重要課題であることはいうまでもない。
 さて、公教育のサボタージュの結果、今、子どもたちの学力は、私学と塾に一任されているといわざる得ない。しかし、こうした公立の小中学校の軽視の傾向は、上記のレポートを読む限り、偶然ではなく必然なのだろう。政策的に行っているといわざるえない。現場で働く、公立学校の教師の方々には、悔しい思いをされていることだろうと強く思う。
 さて、政策的におこなっていると考える理由は、まず第一に、科学技術の進歩による労働者過剰の問題の解決である。
 技術が高度に発達すればするほど、人手はいらない。そこで、教育に関心のない層やあっても経済的に教育に支出できない層の子どもたちは「自己責任」の名の元に切り捨てることができる。つまり、雇わない理由ができる。
 二つに、日教組や全教などの労働組合潰しが目的としてあるだろう。
 86年といえば、中曽根が首相のときで、当時日本列島を浮沈空母にするだとか言っていた。その中曽根が戦後政治の総決算として、労働組合潰しを画策したのは記憶に新しい。
 現JRは、当時国有鉄道であった。日本国内でもっとも土地をもつ会社であった。しかし、この国民の財産というべき国鉄を民間に払い下げた。
 その目的として、中曽根は「国労をつぶすこと」とのちに述懐している。
 国鉄の最大の労働組合であった国労は、この結果、大きく縮小したものの、しかし中曽根が目指した壊滅には至っていない。ただ、力は大きくそがれ、さらに国労とともに政府のめのうえのコブであった郵便労働者の組合である全逓や教員の組合である日教組は反権力として闘う気概をそがれたのである。
 結果、郵便は民営化に一歩一歩近づいている。次は、教育の民営化であろうことは、簡単に想像できる。
 日本は識字率が世界でもっとも高い文化的な国であるが、10年後には、文字の読み書きができない人がアメリカ並みに増えているかもしれない。
 そのとき、犠牲になるのは、いつも決まっている。社会的な弱者である。
 再チャレンジ? ふざけるなといいたい。チャレンジできない、夢も希望もない社会をつくってきたのは一体誰か。自民党の政治ではないのか。
 こうした政権は、さっさと終わりにしてしまわないと、庶民の生活は、アメリカ並みに早晩崩壊させられる。

2006年09月28日

●言葉は聞いて覚えるもの

 安倍内閣の伊吹文明文部科学相が、小学校での英語学習について、「必須化する必要は全くない。まず美しい日本語が書けないのに、外国の言葉をやってもダメ」と言っているよう。
 まったくの正論だと思う。しかし、「書く」ことよりも、「話す」ことの方が重要ではないだろうか。そして、そうした日本語能力の育成という意味では、教育現場の問題というより、自分も含め、周りの大人の話す日本語が一番大切であると考える。言葉は、学校で学ぶのではなく、社会の中で自然に習得していくものだからだ。
 最近、テレビのアナウンサーの話す日本語のおかしさや政治家の話す日本語のおかしさには、耳を疑うばかりである。社会的に影響のある人は、とりわけテレビに露出する人は、注意すべきだろう。
 だいたい、小泉前首相が、「美しい日本語」を話しているところなど、思い出すことができない。記憶にあるのは、みずからの語彙力のなさを証明するかのようなワンフレーズのみ。
 この「伝統」は、安倍首相も引き継ぎ、「美しい」という形容詞を連呼してみたり、最近では就任会見において、 「しっかりと」という形容詞を32回、「思います」という曖昧な表現を35回も繰り返したらしい。
こうした「分かりやすい」表現が、国民受けしているらしいが、わかりやすく人の感情に訴える演説というのは極めて危険である。ヒトラーの演説がいい例だろう。逆に、名演説として歴史に残るのは、じっくりと耳を傾けたくなり、あとでじんわりと心に響いてくるようなものではないか。たとえば、ドイツ首相のヴァイツゼッカー演説とか、チャップリンが映画『独裁者』の中で披露した演説などは、何度聞いても、あるいは何度読んでもすばらしいなあと思う。
 まずは、国の最高指導者が、「美しい日本語」のお手本をみせてくれないと話にならない。ねえ、伊吹文科相(^_^;)

2004年12月12日

●学力格差の広がり

【学力】文章などの読解力で日本は14位 OECD調査
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 経済協力開発機構(OECD)は7日、各国の15歳(日本では高1)の総合的学力を測る学習到達度調査(PISA)の2003年実施結果を公表した。初回の00年より9多い41カ国・地域が参加した。文章やグラフの読解力で日本は14位(498点)と、前回の8位(T22点)から順位も平均点も下がり、加盟国の平均(500点)水準に落ち込んだ。科学的活用力と数学的活用力は2、6位と上位を維持し、初めて実施した問題解決能力の4位と共に「1位グループ」(文部科学省)とされた。

 4分野のうち、読解力の得点を「レベル5」(626点以上)~「1未満」(335点未満)の6段階に分けた場合、日本は1未満の生徒が全体に占める割合が前回の2・7%から7・4%に増え、加盟国平均の6・7%を上回った。生徒を得点順に並べて、下のほうから1割以内に位置する生徒の点数も加盟国平均より低かった。分析を担当する国立教育政策研究所国際研究・協力部の渡辺良部長は「できる子とできない子の格差が広がったとまでは言えないが、下のレベルの生徒の割合が増えた」とみる。


                 「毎日教育メール」

 エントリー「『学力低下』問題なのか」で、教育行政の問題点をあげたが、さらに問題は深まる。

 親の世代からすると、今の教科書のあまりの中身のなさには、ビックリしてしまう。まず、ページ数が少ない。自分が習った事柄が教科書に載っていないなど、不安がつのる。

 しかし、経済的に、余裕のある家庭はまだ良いだろう。塾や家庭教師などで、補強できるからである。あるいは、小学校から私立に入れるということもできる。

 問題は、私立どころか、塾には行かせられないという家庭の子どもたちは、どうなるのかということだ。教育の機会均等、あるいは、就職の機会均等は、大原則であるはずだが、ここまで文部科学省の指導要領が軽薄な内容になってしまうと、公立の小中学校で、まじめに勉強しているだけでは、とてもではないが、社会に出て、生活できるだけの能力は付かないだろう。3けたの計算ができない、割合が分からないでは、アルバイトすらままならないのではないだろうか。

 こうした親の経済力に応じた子どもの格差は、ますます深まるだろう。上記の記事では、6段階のレベルのうち、再会のレベルの子どもの割合が、2・7%から7・4%へと増加したとある。もちろん、トップ層は、維持されているだろうから、国立教育政策研究所の部長が、「格差が広がったとまではいえない」などと微妙な言い方をしても、実際には、格差拡大は明らかだろう。

 こうした差別・選別教育には、大反対である。未来は、子どもたちにある。子どもたちに、教育の機会均等を。

2004年12月08日

●「学力低下」問題なのか

OECD:「学力の低下を認識すべきだ」中山文科相

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 学習到達度調査の結果について、中山成彬文科相は7日の閣議後会見で「我が国の学力が低下傾向にあるとはっきり認識すべきだ。文科省はショックかもしれないが、大臣就任前からそう考えていた。(政策見直しは)中央教育審議会で分析・検討してもらう」と話した。90年代後半に「学力低下論争」が起きて以降、旧文相・文科相が学力低下を認めるのは極めて異例。【千代崎聖史】

 学習到達度調査の結果(『毎日新聞』記事)について、中山文科相が、「我が国の学力が低下傾向にあるとはっきり認識すべき」といったようだが、子どもたちの責任にするなと、声を大にして叫びたい。

 問題は、「学力の低下」などではない。本質は、「学習内容の低下」問題である。

 ひとつに、まず、学習時間が大幅にカットされている問題がある。

 たとえば、僕が小学生の時は、1980年からの学習指導要領に基づいた授業がなされていた。そのときで、小学6年生で、年間1015時間の授業をすべしとなっている。しかし、2002年からは、945時間と、70時間が削減(7%減)。総合的な学習なる110時間をのぞくと、835時間(18%減)と、大幅な学習時間の削減となっている。

 次に、学習内容の削減があげられる。

 例えば、2002年の小学校の学習指導要領の算数を見ると、3けたの計算は、電卓を使っておこなうように指導がなされている。しかし、3けたの計算などは、普通に社会に出たときに、必要不可欠な計算であって、これを小学校で筆算を使っておこなわないというのは、大変な問題である。実際、中学理科における各種の計算(圧力や飽和水蒸気量、電気など)において、子どもたちの計算能力たるや、おそろしく衰えてしまっている。

(新指導要領の問題点として、円周率を約3とするというのが、有名になったが、これは、円周率をどう教えるのかという問題が本質なのではない。本質は、3けたの計算ができないために、3・14を教えてもムダだということである。したがって、マスコミなどで騒がれた後、文部科学省は、3・14でもよしとする異例の見解を出したが、3けたの計算を小学校算数で教えない以上、まったく意味がない)

 さて、経済協力開発機構(OECD)による学習到達度調査(PISA)の03年実施結果は、子どもたちの学力低下を現しているといえるのか。

 僕は、この結果は、文部科学省の教育政策の過ちの結果としか、思えない。

 政治の責任を子どもたちの学力の問題にするなといいたい。