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2006年12月03日

●ボランティアを懲罰と考える発想の貧困さ

野依良治座長
 『日刊ゲンダイ』12月2日号で、相愛大学学長・高橋乗宣氏が、鋭い指摘をしているので紹介しておきたい。
 安倍首相率いる教育再生会議で、いじめをした生徒への懲罰・指導のありかたとして、“社会奉仕”が挙げられているのだが、氏はこのことに対して、
 「これでは社会奉仕をしている子供はみんな、「いじめをした悪いヤツ」と見られるようになってしまう。積極的に社会奉仕をしてきた子供たちは、これまでのように感心されたり、褒められたりすることなく、色眼鏡で見られるようになるのだ。」
 と、危機感をもって訴えておられる。まったくそのとおりだろう。そして、「どうしたら、こういう発想になるのか」と嘆きつつ、
 「ボランティアは懲罰という価値観を持った国が、はたして美しい国といえるのだろうか。」
としめくくっている。
 さて、まったく教育再生会議の委員というのは、どういう思想の持ち主なのだろうか。発想が貧困としかいいようがない。貧困の思想ではなく、思想そのものが貧困であるとしかいいようがない。
 社会奉仕やボランティア、いやそこまでいわなくても、電車でちょっと席をゆずったり、階段でベビーカーを運ぶお母さんに少し手を貸したりするのは、自発的だからこそ、すばらしいのであり、精神的に賞賛されるべきこととなる。だれでもわかることだろう。
 今日、僕はたまたま電車で坐っていたら、酸素ボンベをカートにのせて車内に入ってきた老男性に席をゆずった。つれあいとみられる女性から、譲ったときと降りられるときの2度も、お礼をいわれたのだが、こうしたふとしたことが、僕にとっても、あるいはその老夫婦にとっても、ちょっとした日常での幸せとなる。人から礼をいわれて悪い気はしない。
 そうしたほんの幸福を得る自発的な精神を、懲罰の手段として使わないでほしいし、教育にもなりえない。懲罰として、社会奉仕させられて、精神的な幸福を得られるか。得られようもない、そんなものは、苦痛だろう。そうであれば、教育的な措置にはならないだろう。こういう発想は、旧ソ連の強制労働や北朝鮮の強制労働などの“教化”政策に似ていないだろうか。
 そのうえで、高橋氏が言うように、どうしたらこういう貧困な発想を持つことができるのだろうか。たぶん、この意見を述べた委員は、人から感謝されたことのない、心のたいそう乾いた人間なのだろう。
 こんな委員に教育「再生」を論議してもらいたくない。(論議だけなら、好きなだけやればいいが、この論議の結果、安倍首相が実現に向けて動くとなると、ますます日本は美しくなくなる。実害のある論議はやめさせないと。。。)

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