●多文化・多民族・多国籍社会でともに生きること
僕が、いつもチェックしているブログ「多文化・多民族・多国籍社会で「人として」」さんから、TBをいただいた。その記事が、僕の大脳をいたく刺激したので、僕の意見を書いておきたい。
記事の題は、「虚構の上に立ついやしの「極右」か、現実の上に立つ節度ある「極右」か」で、題としては、極右という立場の人々を題材としているが、内容は、非常に多岐にわたって、重要な内容を含んでいる。
僕が、非常に興味をそそられ、勉強になった点をまとめると、1つには、日本が「単一民族国家」であるか否か、2つめに民族差別の問題。そして、3つめに新たな差別の生産=被差別民の生産について書かれてある点である。
仲@ukiukiさんの記事から助けを得ながら、今日の記事を以下にあらわしたい。
1)日本は、単一民族国家か
現時点において、日本の民族構成をみると、アイヌ民族、そして沖縄の人々(※)など、あきらかに単一民族ではないことがわかる。さらに現実を直視すると、朝鮮民族(国籍は問わず)も多数、日本で生活していることからも、とても日本が単一民族国家であるというには、程遠い現実がある。
さらに、歴史的にいっても、古代以前から多くの文化は大陸から直接、あるいは朝鮮半島を通って入ってきているし、ここでもまた当然のことながら、文化や技術だけが輸入されたなどとは考えられず、人的な交流が実際にある。
天皇制の歴史からいっても、半島からの女性をめとっているケースもあるだろうし、京都、奈良、大阪の地名には色濃く半島からの渡来人=朝鮮人が、祖国を想いつけたと思われる名前も多数みられる。“なら”という地名は、まさにウリナラ=我が国という語を由来しているのではないかと思っている。
また、古代には関東地域にいた蝦夷という人々は、いわゆる大和朝廷によって平定された大和民族以外の民族であろうし、九州地方の隼人や熊襲なども、大和朝廷を構成する民族と同一ではないのではと、僕などは考えている。
だいたい島国である日本で単一民族が維持できるかは、はなはだ疑問である。海をわたるというのは、結構簡単である。じっさいに、中世あたりぐらいには、大陸や半島への行き来のみならず、現ハワイ諸島や東南アジア、オセアニアなどとの交流も行われていたようであるから、そう考えても単一民族など妄想にすぎないと思わざるえない。
では、何の現実性もない単一民族論が、21世紀の現代に、なぜこうも大手をふってまかり通るのか。それは、「和をもって尊し」という言葉がすべて表していると最近強く思う。
結論からいうと、日本民族とは、実際の民族がなんであれ、「自分は日本民族である」として結することであり、逆にいうと、たとえ純粋な(ありえないが)日本民族であったとしても、「日本民族である」と思わない人間は「日本民族でない」という思想体系ではないかと思うのである。
歴史的に見ても、現在においても、強烈な民族主義者に、朝鮮民族や被差別民は、けっして少なくない。それは、科学的に同一民族か否かということが重要なのではなく、自分は大和民族であると自覚の強度に由来するからではないかと思うのである。
(※僕としては、沖縄の人がいわゆる本土のヤマト民族と異なるかどうかはかなりグレーだと思っている。ただ、沖縄の多くの人がヤマトとは違うという気持ちを持っている現実から、一種の民族問題であるとは思っている)
2)民族差別の問題
したがって、民族主義者は、朝鮮人に強烈な日本ナショナリストがいるということを意識的に無視し、「同一」民族であるアイヌ人や沖縄の人が、みずからのアイデンティーを主張することは認めることができない。それは、日本民族の疑似性=イデオロギー性が暴露されるからにほかならないと思うばかりである。
だから、軽薄なナショナリストは、日本人であること=大「和」の踏み絵を踏んだものであり、日本人が日本の国を批判するなど想像することさえできない。
僕は、自分の「イエ」が3代前まで天皇家に仕えていて、退官する際に、ヒロヒト天皇が使っていたという漆塗りで金の菊の紋のはいったお椀をもらったそうで、それが実家にある。したがって、僕は、「正真証明」の「日本民族」(ちなみに、先祖には春日大社の神官もおり、掛軸も残っている)である(笑)と思うのだが、ブログで、日本の戦争を批判し、日本の政治を批判するたびに、「祖国へ帰れ」だとか「将軍さまがお呼びだ」とか、思わず苦笑してしまうようなメールが多数くる。
つまり、日本を認め、「和」を大切にするものだけが、正規の日本民族であり、それ以外は、他民族あるいはアカでしかないのである。
きわめて、差別的で排外主義的な背景が根強く存在している。これこそが、疑似日本民族の本性でないかと思っている。だからこそ、犯罪が起これば、「どこの国の人間だ!」という考えが頭に立ち、それがたまたま××人であれば、「やっぱり、そうか」と、おかしな納得をするのではないだろうか。
だいたい、犯罪というのは、誰が犯してもいけないものであって、その所属など関係はしない。ましてや仲さんが言うように、近代国家体系において、「集団とそこに属する個人とを同一視すること」はムチャクチャきわまりない。
日本民族という幻想こそが、日本における民族差別を増加させているとつくづく思う。「和をもって尊し」かどうかで、そのアイデンティティーが決まるのだから。
3)被差別者の再生産
仲さんの記事が、非常に鋭いと思うのは、被差別者=賎民の再生産に触れている点である。日本におけるナショナリズムが、実質的なものではなく、イデオロギッシュであるゆえに、すぐに「仲間外れ」=被差別者が生まれると考えるが、これが、僕に言わせれば、賎民の再生産と思う。
国内において、差別するものと差別されるもの、何が違うのかといえば、何も違わない。同じ言葉を話し、肌の色も同じ、そして日本国内で生まれているにもかかわらず、差別が生まれるのは、その差別が、きわめてイデオロギッシュなものだからであると思う。
皮肉なことに、ナショナリストの多くは共産主義・社会主義思想を毛嫌いするが、実は日本的な「和」を認めるかどうかで、真性日本人かどうかを決めてしまうのは、かつてのソ連並みの思想統制である。いや、「かつて」などという言葉を使わずとも、北朝鮮のイデオロギッシュな体制をみれば、戦前日本の状況や多くのナショナリストがかぶる。こういういい方をすると、一水会の鈴木氏に怒られるかもしれないが、やはりそういわざるをえない。
さて、僕は、多文化、他民族、多国籍社会で暮らすこと、いやもっと多くの人々とふれあって、さらによりよい人生を送りたいと願う。いろいろな文化から学び、いろいろな人と接することによって、ますます発展性を感じるのである。
とりあえず、仲さんからのトラックバックで、またひとつ刺激が生み出され、僕自身が発展できた気がしてとてもうれしい。
最近、ブログも飽き気味だったのだけれど、また止められなくなってしまう(最近、Wikiが面白いなあと(^_^;)。



コメント
GK68さん、はじめまして。
ブログの記事を採り上げてくださり、ありがとうございます。
私もGK68さんのブログから、今回の記事を含めていろいろ刺激を受けていますので、ちょくちょくトラバを送らせていただいていました。
今後ともよろしくお願いします。
「疑似」日本民族という概念は、的を射ているかも知れませんね。
あくまで擬似的なものであるからこそ、GK68さんのような方に対してまで、「祖国へ帰れ」などというメールが送られることになる。返答に困りますよね(^^;)。
日本の外にルーツを持つ人たちが意外なほど「日本民族」たらんとするその背景には、日本社会の排他性がまた強烈に影響しているのだと思います。
ぼくの知っている範囲では、ブラジル人の子どもが学校では日本名を使いたがるとか、親が日本人の前でポルトガル語を話すのを嫌がるとか、そんな話をよく聞きます。
つまり、集団のコアだと見えるものに、過剰なまでに自ら同化しなければならないという心境に、マイノリティを追い込んでしまう圧力がある。そう思うんです。
こう書いてみると、なんだか集団によるイジメの構図に似ている気もしますね。
Posted by: 仲@ukiuki | 2006年11月20日 23:31
コメントありがとうございます。たいへんうれしい限りです。
>「祖国へ帰れ」などというメールが送られることになる。返答に困りますよね(^^;)。
これは、実際、困るんです(^_^; 別に、“正統派”日本人だというつもりもなければ、僕自体が日本民族などありえないと、思っていますから(笑
>「日本民族」たらんとするその背景には、日本社会の排他性がまた強烈に影響しているのだと思います。
この強烈な排他性は、いったい何だろうかと本当に思います。ブラジル人の子どもの話は、勉強になります。
いったい、何なんでしょうね。とても辛いものがあります。なぜ、そこまでして、同化しなければならないのか。
日本社会が認めないからであるからか、日本民族の疑似性からなのか、そんなことは、卵と鶏の論議になりますが、不幸なことは、同化に失敗すると、生きていけないことです。もちろん、某巨大掲示板をはじめとする“身分、民族の暴露”などがありますから、成功などもないわけですが。。。
もっと、おおらかな社会であってほしいと思うばかりです。
Posted by: GK68 | 2006年11月21日 01:25