●けっこう大きな地震が(O.O;)
関西で、けっこう大きな地震が続いている。今も、あったばかり。台所の食器類が、カタカタと不気味に鳴る。20秒?30秒? いったいどれくらいの間揺れていたのか?
大きな地震が起こると、必ず思い出すことがある。95年1月17日に起こった阪神淡路大震災。
僕は、実家の近くに住んでいた。川を越えれば、兵庫県というところだった。
寝ていると、突然どーんという衝撃で目が覚めた。最初は、何が起きたのか、まったく理解できなかった。揺れは、すぐにおさまった。しばし、呆然とした後、ああ地震かあと理解し、ふたたび布団にもぐった。
そのとき、ふたたび、いや、さっきのとは違う巨大な揺れがおそってきた。部屋全体が大きくゆがみ、天井が回っている。電灯が激しく揺れている。そのときの恐怖は、いまだに僕の記憶に鋭く刻み込まれている。
あまりの恐怖のため、どれだけ時間が過ぎていたか分からない。とにかく、身動きができなかった。テレビをつけても、映らなかった。電気、水道、ガスなど、すべてストップしていたのだ。
台所では、食器棚や冷蔵庫が、1メートル以上移動し、中のものが散乱していた。幸いにも、寝ていた場所には、何もなかったので、ケガをすることはなかったのだが、後で、表に出たとき、血まみれの布団などが、ベランダに出されていたりするのを見て、ホッとした記憶も鮮やかである。
とにもかくにも、まず、実家に駆けつけた。父、母は、無事だった。家も無事だった。
それから、近所の木造アパートに住む友人の部屋を訪れた。途中、屋根が落ちている家などを横目にしながら、次々こみ上げてくる不安を押さえながら、アパートに向かった。
ただでさえ、暗いアパートは、まったく真っ暗だった。壁をつたいながら、前に進もうとするのだが、足下に巨大な何かが落ちていて、歩きにくい。それらをひとつひとつ、手探りでまたぎ、いったい何がどうなっているのか分からないまま、彼の部屋へ向かった。部屋の中は、恐ろしい状態になっていたのだが、ともかく彼もまた、ケガひとつしていなかった。(翌日分かったのだが、廊下がデコボコしていたのは、壁や天井が廊下に落ちていたものだった)
恐怖はさらに続く。一通り、落ち着いたので、情報収集しようと、電池式ラジオをつけると、アナウンサーが叫んでいた。
「大変です。高速道路が倒れています」
「スゴイ火災です。町中が真っ赤に燃えています」
「家がありません、なくなっています」
映像がなく、ラジオに耳を傾け、聞こえてくる情報は、とてもではないが、想像をはるかに超えていた。
「高速道路が、倒れてる? どういうこと?」
夕方頃、復旧したテレビを見て、ようやく納得し、ふたたびみたび地震の恐怖を味わったのだが、想像を絶する出来事を実況し、それを想像することなど、不可能であろう。なにしろ、怖かった。
2、3日すると、となりの兵庫県からきたと思われる人たちで、銭湯やスーパー、コンビニなどは、いっぱいになった。電車は止まっており、道路も封鎖されていたので、自転車や歩いてきたのだろう。何しろ、町中、パニックだった。
当時、僕は、大学の事務職員で、恩師の研究の手伝いをさせてもらっていた。その研究所の図書室も、大変なことになっていた。書架は、すべて倒れ、2万冊にも及ぶ貴重な蔵書類は、すべて床に散乱していた。
その整理の仕事に、いったい何日かかっただろうか。今では、まったく覚えていないが、整理しながら
「あっ、こんな面白い資料があったんや」
と、新たな発見ができたのは、けっこううれしかった(^_^;)
数ヶ月後、電車やバスなどを乗り継いで、震災地へいけるようになった後、現地に赴いた。友人から、多くの支援物資などをカンパしてもらった。中学時代からの友人(女性)からは、
「絶対、これが必要やから」
と、ミカン箱6つ分くらいの生理用品を託された。男の僕では、とても思いつかないことで、彼女に、声をかけてよかったなあと、とても感心した。
被災地でのいろいろな経験については、また、気が向いたら、記事にすることにして、今日の地震が、地盤の矛盾を少しずつ解消してくれて、大きな地震につながらないことを祈りながら、連れあいの待つ床にもぐりこむことにしよう(・-・)


